2010年02月17日

フーリガンの社会学/ドミニック・ボダン 陣野俊史・相田淑子:訳



1930年代から社会の脱キリスト教化が始まり、近代化した個人は徐々に社会的束縛を逃れるようになってきた。戦争が終わると、経済の豊かさがはっきり姿を現す。自由な時間が増える。 <中略> これが、個人主義者の、さらに個性化した消費社会の始まりである。 <中略――サッカーが手の届きやすい唯一の娯楽である時代は終わる> この時代、選手は部分的にプロであったり、ときにはまだ「アマチュア」にとどまり不正な仕方で報酬を受け取っていた <その資金はチケット代―だった―中略> イギリス人たちは、選手のプロ化、快適な観覧席への改良、さらにはスタジアムの改修を行なって、ゲームを興行化(ショービズ)することを選んだ。 <中略> エンド席と呼ばれるその席は <中略> イングランドのスタジアムの四隅に置かれ <中略> 社会的にはバラバラの層に属し、あまりサッカーに馴染みのない観客を呼び込んだ。こうした変化が、スタジアムという社会空間の持つ、以前の祝祭的で会食的な雰囲気を激変させる。  p26


サポーター行動と暴力は、みすぼらしく薄汚い日常から、彼らを外に連れだす。最も色褪せた日常生活からの逃げ口、出口なしの未来に基盤と意味を与えてくれる。サポーター集団のなかには、戦闘チーム(ファイティング・クルーズ)を作るものもある。 <中略> つまり、しっかりと存在をアピールするためには、頭角を現さなければならないのだ。 <中略> サッカーとそのプレイヤーは、民主主義的理想を具体化している <中略> その理想に従えば「どんな人でも誰かになれる」のだ(エランベール)。しかし、サッチャー時代のイギリスでは <中略――富裕になっていくプレイヤーと、強引な政策に排斥され、将来の希望もないサポーターとの溝が> 日増しに深くなっていった。  p34


1982年、ICF(ウェストハムのインター・シティ・ファームという戦闘チーム)は、地下鉄出口でアーセナルのサポーターを短刀で刺す事件を起こした。そのことでICFは最も暴力的で暴力性を象徴する存在となった。刺されたサポーターの身体には一枚のカードが残されていて、「おめでとう、たったいまちょうどICFに会ったところです」の文字が躍っていた。  p35


フーリガン現象は、島国性を離れて普遍化した。解説され、繰り返し言及され、幾度も画像が流され、いつも同じ映像がキャッチ付で現れたからだ。「言葉の重さと写真の衝撃」である。マスメディアは、前例がないくらい、サポーターとフーリガンにヴィジュアル的要素を付与した。  p46
メディアは広い範囲でフーリガン現象のプロモーションに貢献した。  p49


ヘイゼルの悲劇以後、フーリガン現象の構造上の進化もまた特徴のひとつである。社会的な取締り(欧州協定、国家レベルでの法律、スタジアム周辺の安全区域、入場チェック措置、ビデオ監視など)が実行されると、新しい形のフーリガン現象が生まれる。「カジュアル」という暴力的サポーターは、外見からはなんらグループの特質を示すものをまとっていない。 <中略> 人に安心感を与え、簡単にスタジアムへ入ることができる。  p53


スタジアムでの安全管理の充実に比して、スタジアムから離れた場所で多くの事件が発生しているので、分析がとりわけ難しい分野となっている。 <中略> 暴力の意味は、時代と場所によって変わる。  p64


フーリガン現象を理解することは、まずサッカーに関心を持ち、このスポーツがスポーツの空間で何を表現しているのかを知ること、そして他の活動とどのように違うかを理解することである。  p70
(この本じたいが、ここについてもっと徹底してくれたらよかった。いくつかの他競技との文脈の違いだとか、数値をあげて他競技と選別をはかる箇所もあるんだけれど、この本でやろうとしていることが新書サイズに合っていなくって、いまいちフーリガンが「フットボールならでは」の問題という印象が薄い。もし、フットボールならではの問題でないなら、それはそれでよいので、そうとしての証を立ててくれたらよい。この印象の薄さはまま、残念ながら、著者の研究やフーリガンそのものへの接近を難しくさせた。たとえば、フットボールが世界的なスポーツになった要因として「他のスポーツより以上に、社会的同化の力強い道具でもある」「サッカーは熱狂と高ぶった感情を友人たちと共有できる、経済的な意味でほどよいスペクタクル(見世物)である」という点を挙げているが、どちらも他競技にだって言えてしまう。またフーリガンを誕生させた条件として挙がっていた「スタジアムに入りやすかったから」「時代の流れに合った」という点だって、そういうことであればサッカーでなければならなった理由として不十分だし、どうしてラグビーやホッケーなどの会場では暴力行為が発生しなかったのか? 暴力的な集団が形成され、たがいを意識するなかで反社会的な行為がヒートアップしていったケースはなかったのか、など。まあ新書だから……入門編としてはいいかもしれないが、説得力や現実感に欠ける。(こういうところは訳者である陣野さんの著書にも通じる物足りなさ) フランス人の著者が、かなりのパートでイングランドの例を引き合いに出していて、いまどっちの国の話をしてるのか? と戸惑ったこともなんどかあった。でも、このエントリーに抜粋したみたいに、覚えておきたい箇所もたくさんある)


(一八二八年から四〇年までラグビーカレッジの指導者だったトーマス・アーノルドが、イギリスの「公立学校」に運動競技を導入し、ボール競技の規則をアレンジしながらサッカーを突然、作り上げた。いまや、もっとも世界的なスポーツになったサッカー)
どうしてサッカーはこれほど発展してしまったのだろうか。 <中略> まず、どんな人間でも人生で最低一度はやったことのあるゲームだ、という点。 <中略> 特別な備品は何も必要ない。 <中略> どんな地面でもプレイすることができる。 <中略> ボールがあればいいし、缶だっていい。 <中略> サッカーは単純なスポーツである。 <中略> 誰にでも議論ができる。 <中略> つまり各人がひとりずつ意見を持ち <中略> プレイを反芻する。 <中略> ひとつのチームに対する入れ込み具合やプレーヤーに対する愛情 <中略> サッカーは不確実性を抱えている。スコアは他の集団スポーツよりもずっと緩やかにしか変化しない <中略> ただし、いかなる瞬間でも、試合はひっくり返る可能性がある。 <中略> サッカーはまた、他のスポーツより以上に、社会的同化の力強い道具でもある。 <中略> 最後に、サッカーは熱狂と高ぶった感情を友人たちと共有できる、経済的な意味でほどよいスペクタクル(見世物)である。フランスでは、ヴィラージュ席(スタジアム四隅のサポーターシート)の一席あたりの単価は10ユーロ以下である。  p71


サポーター行動に参加している十七歳以下の者は、模倣を通して徐々に闘争行為に加わっていく。それは、年長者に認められ、受け入れられ、組織に組み込まれたいと思うからである。グループのなかにある固有の価値を守りたいと思うのだ。こうして彼らは中心メンバーが独占しているより重要な位置や役割を獲得することができる。  
 <中略> 
フーリガン全員が社会的に恵まれない存在というのは言い過ぎである。 <中略――フーリガンの両親が上級管理職であることは珍しくないし、フーリガンの両親に失業者が多いというリサーチも提出されていない。つまりフーリガンになる人間の家族が社会からドロップアウトしているパターンが多い、あるとは言えないのだ>  p100
(シノギだとかイニシエーションだとかヒエラルキーだとかエリーティズムなど……フーリガンはヤクザやマフィアとそっくりな集団性を感じさせる。ただ著者が繰り返し語っていることなんだけれど、現代的なフーリガンの特徴として「二面性」というタームがあるという。ふだんは法科の学生だったり、建築設計や医学に携わっているような、いわゆるハイクラス(その予備軍)が、フットボールのゲーム当日だけスタジアムでフーリガンになるケースも多々あるという研究結果のこと。この点はギャングやヤクザのような「道」的イメージと乖離することに注意)


スペクタクルや美しいプレイを求める根拠は、「教育的」目標のために構想され作られたスポーツのものである。たとえばバスケットボールやバレーボールである。  p105
(このブロックの中でフーリガンは「スペクタクルを求めていない」と筆者は言ってる。それについては、そういうアンケート結果が出るかもしれないが、イングランドのフットボール(およびサポーティズム)を形成した大きな要因が「スペクタクル(美や見世物としての素晴らしさ)」への渇望とは違う、ブルーワーカー独特の憤懣だとか社会・宗教上の対立構造だったからといって、現在のフットボールをそのようなスポーツと定義するのは間違っているし、一方で、バスケやバレーを「スペクタクルで美しく」かつ「教育的なスポーツ」とくくることも浅はかだ。世界各国、しかも、その国々においてだって地域それぞれのフットボールやバレーやバスケがあるし、だからやっぱり「どうしてフットボールだけフーリガン?」という疑問が深まっていくし、この人が語る「フーリガン」とその傾向にどれだけの妥当性があるのかわからなくなってしまう。 ひとつ精神衛生的によいと思われるのは、この本に書かれているフーリガンという言葉から、フットボールを切り離せばいいということ。もしくはフットボールからフーリガンを取り出してみる。そしてスポーツのファンが暴徒化する傾向と、その集団性として読んでいけば、示唆に富んだ記述として読み替えることができる。というか、ひょっとしたら「フットボールとフーリガン」という問題設計に妥当性がないのかもしれない)


「貴族がプレイする不良少年のスポーツ」たるラグビー  p105


サポーターの情熱は「若者」と「年配者」のあいだで大きく異なる。年齢を重ね、社会的にも職業の点でも認知されてる人びとは、サッカーの試合を必要としない。チームの勝利を求めてもいない。 <中略> しかし、若さは「精神的・社会的潜伏」期であり、サポーター行動のおおいなる冒険に参加したいという意思の固まる時期である。  p106


サポーターのサブ・カルチャーはしばしば二重化している。不安定なものである。まず共同体であり、他方で暴走的である。この相反する二つの極のあいだで均衡がとれている。  p134


(日本との社会性や社会構造の違いも鑑みながら読むと、この本の例証に、どこまで汎用性が備わっているかも検討しなきゃならない。 日本にフーリガンがいるとは思えないけれど、暴れるような連中はおそらく「メディアは広い範囲でフーリガン現象のプロモーションに貢献した。  p49」というミスリードされた情報を刷り込まれてるだろう。日本でもし研究するなら、フーリガンとしてどうこうとか、なんでフーリガンになっちゃうかということよりも、他のカルチャーとの関連をもって、カラオケ的に海外の文化を消費・流用・盗用・拝借する「日本人の国民性」みたいな話にしていったほうが妥当かもしれない。そして、この延長において「ひょっとしたら海外の『暴力』の流行ですらカラオケ的にキャッチしファッションとして振るまってしまう」という怖さ? 愚かさ? 短絡性? 距離の無さ? 本性? みたいなことが日本的フーリガン現象の本質として検討されるテーマになるかもしれない)


posted by kurokiza at 02:54| Comment(0) | TrackBack(0) | bOok | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/141366928
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック